検証不能
昨夜驚愕のニュースが飛び込んできた。戦後に行われた憲法裁判の記録が多数廃棄されたのだ。その中には自衛隊に対し一審札幌地裁で違憲判決が出た長沼ナイキ訴訟や、沖縄の米軍用地の強制使用をめぐる代理訴訟など合憲違憲が争われた戦後の重要な民事裁判の記録多数を全国の裁判所が既に廃棄処分しているというのだ。
共同通信社の調べによると代表的な憲法判例集に掲載された137件のうち118件廃棄、保存18件、不明1件。判決文などの結論文書はおおむね残っているそうだが審理過程がわからないと、憲法裁判の争点などを丁寧に振り返ることが出来なくなるのではないだろうか。
今年の2月までは廃棄されていないという情報もあった。一体、いつ誰が命令をしてこのような愚挙を犯したのか。いつか日の目をみることを願う。
何のための廃棄なのか
私にはどうしても現政権が憲法改正のため、様々な検証をさせないようにしているとしか思えない。
伝承が確かならば、厩戸皇子と蘇我馬子が編纂したと伝わる「国記」「天皇記」は乙巳の変にて蘇我蝦夷宅が焼けると共にこの世からなくなり、最近では第二次世界大戦敗戦の際、政権も軍部も大量の資料を焼却した。
現政権は公文書改竄もしたうえに今回の暴挙だ。歴史をこんなにも疎かにしてよいのだろうか。憲法とは何のためにあるのか改めて考えたい。
誰のための憲法か
憲法は何のためにあるのか簡潔に記していく。憲法とは全て国民のためにある。人権に関する規定はそのまま国民のため。統治機構・国会・内閣・裁判所に関する規定は三権分立により権力の集中を避けるためにある。権力の暴走を止めるためだ。
先に挙げた長沼ナイキ訴訟は国家行為の違憲性を争う場合、憲法の前文違反を主張できるか、 憲法の前文が裁判規範となるか争われた。裁判規範とは国民ではなく裁判官に向けたもので、ある争いごとを扱っている際の拠り所とし、裁判を具体的に解決するための具体的な事例のことだ。
長沼ナイキ訴訟では、一審の札幌地裁では憲法前文の裁判規範性を認めているが、続く札幌高裁、最高裁では憲法前文の裁判規範性は否定された。判決だけ残っていても、一審で何故裁判規範性は認められ、その後主張が退けられたのか詳細がわからなくなってしまった。
憲法は国民のためのものだ。何故時の権力者の思うがままに、様々な記録が廃棄され隠蔽され改竄されなくてはならないのだろうか。
日韓関係もとても心配だし参院選直後に飛び込んできた有志連合の件も非常に心配である。このまま戦争へと突き進んでしまうのだろうか。それだけは勘弁していただきたい。
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